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工務店の社長が倒産し逃亡!でも復活し「借金で死ぬ必要なし!」

※今回は体験談をお届けします※

オレが土地を買い、家を建てたのは33才のとき。今から12年前のことだ。

高校を卒業してから大工の見習いとして建築会社に就職。その後30才になったばかりで独立したオレは、故郷である西日本の某地方都市で自分1人が働く個人の工務店を興した。

それから数年、代々商売人として働いてきた家系の血か、はたまた単に運がよかっただけなのか。オープン直後から仕事に恵まれ、そこそこ稼げるようになっていた。

そこで手ごろな土地が売りに出ていたこともあり、念願の土地付きの自宅を建てることにした。

もちろん、我が「○○工務店」が誇る技術の粋を集めた一戸建ては、どっからみても惚れぼれする出来に仕上がった。

ただし、いくら稼いだといってもキャッシュじゃ支払いは無理。金融公庫から資金を借り入れ、30年ローンを組んだ。

考えてみれば、このときからオレの借金生活が始まったのである。

◆銀行は簡単に融資!

工務店は、土木建築の注文を受け、希望どおりの建物が出来上がるよう、大工をはじめ左官屋、内装屋などありとあらゆる下請け業者に発注して監督、指揮するのが主な仕事である。

見習い中に培ったコネクションのおかげか、30過ぎの若造が1人で始めた店は、しごく順調に業績を伸ばしていった。

そして5年目。オレは初めて銀行に融資を申し込んだ。別に経営が行き詰まったわけではない。商売を拡大するための費用が必要になったのだ。

仕事はそこそこある。例えば オレ1人が担当して半年かかる物件を人を雇って3人でやれば半年で3件はできる。

つまり取扱う物件が増えれば、それだけ利益も膨らむことになるのだ。 しかし、一方で問題もある。

1人で働いているときは、例え工事が遅れたとしても、自分が残業すれば済んだ話だが、従業員を雇うようになると、そうもいかない。

法人登記をしていないとはいえ、労働基準法に基づく就労時間は守らなくちやいけないだろう。いい職人に来てもらうためには、残業代だって払わなくてはならない。

実際、スタッフが増えると運用資金のほとんどは人件費にくわれるといっても過言ではないのである。

さらに工事規模が大きくなれば、それにつれ店の立替金も大きくなる。

客からもらう工事費と、下請けに払う作業代の納期がズレるため、一時的に資本金ともいうべき金が必要なのだ。

オレはおそるおそる銀行の融資課を訪ねた。すると担当者は持ち家かどうかを聞き、登記簿騰本を見せただけで、500万の資金をすぐに用意してくれた。

返済 は、月3、4万。なんの心配もなく返していける金額である。 バブルの大波がやってきたのは、ちようどそんなときだった。

いまから10年ほど前、オレは35才になっていた。

◆バブル経済で事業拡大

建築業界というのは、元々派手なとこがある。派手というのは、すべてが金で動くというか何というか、早い話、賄賂や接待が横行しているのである。

一時、問題となったゼネコンレベルの大会社だけではなく、オレの店のような個人業者も含め、企業の発注担当者には仕事を回してもらうために賄賂を贈り、飲ませたり食わせたりの接待。

そして下請け業者には自分が接待してもらう。そんなことが当たり前に行われているのだ。

そこへきて狂ったような好景気である。もう毎日が接待の連続になった。

今日は自分が企業のエライさんたちを飲ませたと思うと、明日は下請けのメーカーに飲ませてもらう。

小さな町の繁華街ゆえ、仕舞いには誰が誰を接待していても、結局は毎晩、同じようなメンバーが同じような店に出没。

誰かの金で夜更けまで飲み明かすという有り様になった。

さらに、いくつかの建材メーカーは、新製品のキャンペーンと銘打ち、オレたち工務店の人間を国内や韓国など近場の海外旅行に連れていってくれたりもしたのである。

テレビや雑誌では、東京や大阪などの大都市で女性がらみの露骨なサービスも行われたようだったが、やっばりそこは地方都市。

仕事の規模が小さいせいなのか、そこまでの金の動きはない。

仕事を幹旋した場合の世話料は10万単位。一軒新築して2、3千万の工事費なら消費税よろしく3%(当時)の礼金をするというのが相場だった。

もし運よく規模の大きい土木工事が入って橋を架ける、ビルを建てるなんてことになれば工事費は億単位。

が、その場合も 1、2%のバックマージンが行き来するだけ。せいぜいがその程度だ。

それでも毎夜の接待のお陰か、オレの小さな店にも仕事はいくらでも舞い込んできた。

うちが扱うのは一戸建て住宅だが、バブル景気まっただ中の’88年、’89年 には、2年先のスケジュールまで埋まっていたのである。

景気がいつまでも続くのか、なんてことは考えたこともない。

当時は、仕事があるのが当然のことと思い込んでいた。 先行投資にと、作業機械を高 性能のものに買い替え、2台だったトラックを5台に増加。

4、 5人の従業員を雇い入れて積極的に仕事をこなした。

接待をして仕事を入れ、また接待。金はいくらあっても足りず、他の銀行からも500万と400万。さらには農協にも300万を借りた。

銀行は登記簿騰本の確認だけ。 農協は農地がなくても少しの株を購入しただけで簡単につきあってくれた。

いつの間にか金融機関からの借入金は1,500万円になっていたが、そんなことはなんでもなかった。仕事はあるのだ。いくらでも取り戻せる、と思っていた。

◆工事予定がずれ込み事実上会社は倒産!?

個人住宅の建築費は、最初の受注時に契約金として3分の1、 棟上げが終わったときにもう3分の1。そして、工事が終了したあとに残金を受け取るのが通常である。

例え、月14、15万の返済金があっても、景気がいいときは、 仕事さえあれば金が回っていた。 接待の金も、下請けへの支払いも、すべて回っている金の中で処理できた。

が、だんだんその歯車が狂うようになった。仕事をしても思うような利益が上がらないばかりか赤字が出るようになり、次第に仕事の量自体も減ってきたのである。

しばらく苦しい自転車操業が続き、ついにそれがストップするときがきた。

運命を分ける仕事となったのは、それまでさんざんやり慣れた一戸建て住宅。

景気に影が射していたせいか、依頼主の客は工費を少しでも減らすため、土台工事を自分たちの手でやると言い出したのだ。

昔は家を建てるとなったら、 一生に一度の買い物。うちら専門家が薦めるままの言いなりだったが、客もパカじゃない。

だんだん目が肥え、自分たちの意向を堂々と主張し始めていた。 オレは土台がいつ出来上がるのかを確認。

その年の8月お盆のころから上の建物部分だけを構け負う契約を交わし、費用の3分の1を受け取った。

それが90年の6月半ばのこと。 誰でも自分の家が持てるとなれば力が入る。ましてその客は素地があったのか、7月が終わる頃には無事に土台工事を終えそうだと連絡が入った。

オレたちはスケジュールどおり仕事を調整し、8月半ばにはその客の家に取りかかれるよう材料を用意し、準備を整えた。

が、思いもかけない事態が起こってしまった。8月初旬、大型の台風が西日本を直撃したのである。

勝手を承知でいえば、うちの店が手を付けてなかったのはまだ運がよかったのかもしれない。

というのは、その台風のせいで件の家の土台が無惨にも流されてしまったのだ。多少、傾斜地だったため、台風一過には、土砂とともに跡形もなく消えてしまっていた。

依頼主にとっては、不可抗力のできごとてあり、同情に堪えない。しかし、それにより工事は確実に延期されるのだ。

ということは、店に金が入る期日が延び、予定していた下請けへの支払いができなくなるということを意味する。

1、2年前なら、そんな心配をしなくても別の仕事がすぐに入ったが、このころになると、いくら接待しても仕事は全く入らなくなっていた。

この仕事を早く終わらせるしか収入のアテはないのだ。

依頼主に、土台が流されたのはもちろん台風のせいだが、工事のやり方にも問題があったのではないか。

どうせなら、プロであるオレたちに任せた方が後あと、安心できるのではないかと、必死に説得した。

だが、依頼主も金融公庫て金を借り、ギリギリの計算て家を建てていた。そして台風のおかげで、ますますお金の余裕はなくなっていたのだ。

カネのメドが立たない「もうダメだ。死のう」

建築予定地は、台風の傷跡のままに放置され、1カ月が過ぎ、2カ月が過ぎた。その間、いくら問合わせをしても依頼主からの回答はなく、うちの店は開店休業状態にあった。

クセになってしまった接待が相変わらず続いていたが、規模が小さくなり回数が減り、気づくと自分1人て飲んている時もたびたび。

下請けには「いまやってる。家が建てば払えるから」と、頭下げて支払いを延ばしてもらていた。

しかし、11月に入っても土台工事が再開する気配さえない。このままだと、年末どころか、正月にも収入のメドはたたない。

この時点で、借入金の合計は2,500万円あった。内訳は、銀行や農協など金融機関に1.500万。そして下請け業者への売掛け金が1000万円であった。

もちろん、自宅のローンを別にしての話だ。 1人て酒を飲みながらじっくり考えた。

銀行と農協への返済は、3か月滞納したため融資の際に間に入ってくれた県の「信用保証協会」(各都道府県にある公共の 計用保証機関) に債権が譲渡され、そこからの催促に切り替わった。

公的機関がビジネスとしてサービスを展開しているので、誰の懐が痛むというわけではない。手荒な督促はなく、こちら事情を話せばなんとかなりそうな感じがあった。

それに対し、ツライのは下請け業者への未払い分だ。

家を一軒建てるのに携わる業者は、30社ぐらいに上る。

大工や建具、畳屋、差し屋、左官屋。 それに空調設備の業者や電気工 、ペンキ屋に瓦屋など。みんな、うちと同じように個人経営で細々とやってるところがほとんど。

仮にも、自分が小さいながら「工務店」という看板をしょって商売ができたのは、苦しいときにも無理をきいてくれた業者さんたちがいてくれたからこそだ。

今回だって、依頼主の注文に合わせて材料を準備、いつでも工事にかかれる態勢を整えてくれていた。

その上、もう支払いを3カ月待ってくれているのだ。なのに支払いのメドもたたないまま、もう少し待ってくれなんて、とても言えない。

それに、このままオレの店の支払いができないとなれば、連鎖的に商売が立ち行かなくなるところが出てくるかもしれない。 いったいオレはどうしたらいいんだろう。

1人で飲む酒は思考を狭め、だんだん悲観的になってくる。

「もうダメだ。死のう。そうすれば女房が保険金で返すだろう」 首をくくったんじや金は出ないから、車にでも当たるか。

どうせなら金持ちの外車がいいけど、もしヤクザだったら一銭も出ないし・・・。

そんなことを考えてるうち、 結論が出た。 「よし、ひとまず逃げよう」

◆1日働いて600円。フィリピンで土方工事

そう思い立ったオレは、その夜の最終便で東京に飛び、翌日の夕方にはフィリピンへ向かう飛行機に乗っていた。

なぜフィリピンだったのかといえば、まだ景気がいいときに 3、4度行ったことがあり、居候させてくれそうな知り合いがいたからである。

所持金は、キャッシュカードで下ろした30万円。家に残した女房と1人娘には、その日を限りに連絡を断った。

そのころのオレは景気のよかったとき同様、ヤケ酒を飲んでは繁華街のカプセルホテルに泊まることもしばしばだったから、1日2日留守にしても、また勝手して、ぐらいのこと。

でも3日も経てばおかしいと気づき、十年来付き合いのある。

大工の山下さんに連絡を入れるはず。そしてオレの実家に行って親父に相談するだろう。

女房は工務店とはまったく関係のない会社に勤め、オレも家ではいっさい仕事の話はしながったから、2,500万の借金のことも知らず、きっと事情がわかるまでは悩むに違いない。

そう考えると申し訳ないと思ったが、他に道はないのだ。

フィリピンに到着後、すぐにマニラ表郊外の知り合いの家へ直行。彼はオレが逃げてきた事情を話すと、1人ぐらい増えてもなんとかなると、笑顔でオレを迎えてくれた。

ただし、彼の家に金がないのは知っている。オレが増えたことで家族1人1人の食い扶持が確実に減るのである。

なのに彼らは、何度か遊びに来たとき、これでうまいものでも食べてくれとオレが渡した何万かのお金のことを覚えていて、恩にきてくれているのだ。

持ち金をすべて友人に渡し、オレのフィリピン生活がスタートした。友人の家族たちは「ノープロブレム」と暖かく接してくれる。

オレは、なるべく食事の量を減らし、彼らの気持ちに応えた。そして仕事があるときは、工事現場に1日600円の給料で働きに出たりした。

こうして3週間後にはビザは切れ、オレは一銭も持たない法滞在者の身の上になっていたが、金がなければないでやっていけるのがフィリピンのいいところ。

すぐに現地のフィリピノ語を覚え、貧しいながらも、お金に頼らないフィリピンの生活が8カ月間続いた。

◆痩せた俺に気付かない嫁と子供

オヤジが死んだ。俺から日本へ連絡は取らなかった。たぶん女房が見当をつけたのだろう。

友人のところに突然、手紙が来たのだ。 オレとは別に、60年余りの1人で土建屋を運営してきた。

固モノである。その親父が死んだという文字を見た瞬間、おれは帰国を決意。ただちに出発の準備に取り掛かった。

が、なんせ不法滞在の身。すぐには出国手続きが取れず、結局、初七日どころが四十九日のにも問に合わない親不孝をした。

帰国のときも傑作で、オレが到着の飛行機を知らせると、女房は福岡空港まで迎えに来てくてた。

一刻も早くオレに会いたいというのではなく、オレの持金はそこまでの旅費にしかなかったのだ。

飛行機を降り、到着ロビーの椅子に座って迎えを待っている。娘の手を引いた女房が近づいてくる。

と、彼女はオレの目の前をスッと通り過ぎていくではないか。

「おいおい」 思わず立ち上がって声をかけると、怪訝な様子でオレを確認し、しばらくして「えーっ」 子供と顔を見合わせる。

言われるまで気づかなかったが、オレは逃げる前に比べて25㎏疲せ、しかも真っ黒に日焼けしていたのだ。

いくら15年以上結婚生活を過ごした嫁とは言え、間違えるのは当然である。

ひとしきり驚いた後、改めておれの顔を見て、怒ったような声で「お帰りなさい」という嫁。

オレが逃げてる間、実家に戻らず、しっかり働き娘を養うばかりか、家のローンまで払っていたという。

オレには他に言うことばはない。そのときから、女房にはすっかり頭が上がらなくなってしまった。

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◆帰国してビックリ!借金が1億8千万円!?

日本に帰ったオレは、とりあえず実家に行って親父の墓参りを済ました。

が、おふくろや兄弟に話を聞いてピックリ。なんと親父には、1億8千万もの借金があったというのである。

別にぜいたくをしたとか、ギャンブルにつぎこんだというわけではない。すべての使用目的は土建屋の店の運用資金。

さすが60年もの長きにわたるだけに、 利子が積もりに積もってこんな莫大な金額になったらしい。

オレが2,500万の借金て逃げたとき、親父は「なんでそんな金で・・」と不思議がっていたという。

保険金の配分を巡り、家族や親戚一同が集まった席で、その処理の仕方が話し合われた。いまを逃したら返す機会はない。

なんとか借金を完済することはできないだろうか。 結果、男3人兄弟 (オレは真ん中)が、債権者に掛け合うことにした。

親父の借り入れ先は、 銀行と農協。つまり、現在の債権者は信用保証協会のみ。 保険金があるから、元金は払える。

借金を受け継ぐおふくろには収入のアテがないからこのままだと自己破産しかない。利子を削ってほしい。 そう申し出ると、交渉はうまくいった。

1億8千万の借金は8千万になったのである。 親父の借金を払っても、2千万近くの保険金が残った。オレは受取人である身内たちに頭を下げ、借りられるだけ借りた。

オレが逃げてる間も待ってくれた、下請けの業者さんたちに返して回るためだ。

といっても、全部が全部返しきれず、筋だけは通そうと顔を出すと「お金ができたときに払ってくれればいいよ」と、言ってくれる業者さんもいた。

誠意を尽くせば逃げる必要はなかったのかもしれない。銀行への返済にしても、法人登記していたら、手形が落ちなかった時点で借金はチャラになっていたはずだ。

最後の尻拭いも親父の保険金で済ませたオレは、「やっばり親父を超えることはできないなあ」と、つくづくそう思った。

個人債務はなかったとはいえ、親父はオレの7倍以上の借金を抱え、卑屈にならず、ごく普通に生活をしていた。

オレが小さいころは、債権者が取立に来て、玄関先で大立ち回りを演じたこともあったようだが、オレが物心ついてからは、そんな素振りさえ見せなかった。

現在、オレは保証協会へ一銭も返済していない。向こうの担当者が替わるたび、返済の予定について話しあいたいと言ってくるが、電話だけ。

オレは最近また工務店を始めた。支払いを待ってくれている下請け業者も何社かつきあってくれ、仕事も決まった。

いまも 2,500万の借金があることは変わらないが、神経が図太くなったせいか気分は明るい。

借金で命がなくなるワケじゃない。そう思うこのごろである。

(おわり)

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